スティールボールランには色んな魅力があります。大きくわけて三種類の・・
・・なんて下世話なくくりは出来ません!漫画を超えた波紋をあなたに!
以前、麻生太郎さんが漫画をサブカルチャーの魅力として語られていたが、私的にはスティールボールラン(荒木飛呂彦氏著)についてはこのサブカルチャーの括りすらもう飛び超えているのでは・・の感がある。
19世紀の北アメリカにおいて、猛者たちが大陸横断レースに名を借りた命がけのサバイバルに挑むストーリーなのだが、登場人物の濃さが、荒木さん流の(真性荒木イズムとでも言うべきか・・)表現と相まって独自の色で展開していく。いまさらスティールボールランを読まなくとも冒険ベースのレースを題材にしたストーリーは映画にしろ漫画にしろ繰り返されてはきたのだが、もちろんこれらと比べてもスティールボールランは全く異質だし、なにしろ「きっと、落としどころはここだね!」的な読者側の期待はきれいさっぱりと裏切ってくれる。
というか、最初のページから読者の期待を裏切っている・・もちろん最大限の賛辞としてだが荒木さん流の先制パンチがなにしろ強烈で、土方というよりは山本勘助??だった(笑)。
スティールボーンランを自身の肌で感じて読まれる読者の方なら当然自身が今の「ステージ」での緊迫感・人間の魅力・生き抜く方向を感じながら時を過ごしているのだが、パラレルストーリーが意識の片隅にある方にとっては、「それは違うでしょー!」だったり「あれっ・・こんな感じなの」という場合も当然あり得る。この頃は私的に思っていたよりもずっと多いのでは・・とも感じる。
だが、スティールボールランの本当の感じ方はココにあるのかもしれないとすら思う。他にも絵のタッチの「芸術性」に惹かれて、「スティールボールランはこう描いて欲しい!」と公言されている方もおられる。
それはあたかも「くもの巣状」に張り巡らされて、ブラインドの道を自身の目指す方向へ行きたい!と自分の判断で歩いているかの様でもあるのだが、実は荒木さんに「そうやって自分の力で進んで行きなさい、ちゃんと歩けるじゃないか!」と読んで・肌で感じて・・教えられている様な気もしている。
他の漫画を読んでそう感じ、スティールボールランに触れて一層明確になったことがある。ことに大切な友人・親・恩師・子供と接する機会に、とっさにさりげないやさしさに遭遇した時に処理しきれないぐらいのうれしさを感じるのである。
ただ、スティールボールランから「大きくなった」とか、「涙ぐむ」とかではない。漫画を意識せず、より無意識に近いレベルで、後になって想ってみると確かにそうだ!・・という感じなのである。これは・・ある意味私にとっての波紋なのか(汗)、ツェペリの「ニョホ」のせいではないとは思う(笑)。
とはいえ、スティールボールランにもっと早く出会っていたらどうだったかと考えてみたりもする。具体的には仮面ライダーとか、ウルトラマンの5年後ぐらいで、そこから初めてグルグル今日に至るまで読んでいたい。私だけでなく、手塚治虫さんが読んだりしたら、いまごろアメリカでアストロボーイがニョホっているかもしれませんが・・(汗)。